横田愛明「一殺の瞬間」


横田愛明師範(第8段合気会)は、山田師範、千葉師範、多田師範、田村師範などと同様に、世界で最も有名な合気道師範の一人です。私にとって横田師範はその中でも群を抜いた最高の師範ですが、2008年のある運命の日まで、当時6年間日本に住み、訓練を受けていたにもかかわらず、お名前を存じ上げておりませんでした。正直に言って、横田師範は合気道を辞めようとした私を救ってくれました。これまで人生で何かを辞めたことはありませんでしたが、師範に会う直前まで私はこれまでの合気道に失望感を抱いていました。

文:ライオーン・マカヴォイ

横田師範は12歳の時に中学校の柔道部の部長を務めていましたが、空手の道に入ることを決意しました。彼はさらに高校で合気道部に入り、昼は合気道、夜は空手で約7年間切磋琢磨しましたが、合気道に専念することを決意し、内弟子として約二年間合気会本部に在籍しました。横田師範の合気道は、力強く、効果的で、わかりやすいものです。現在、本部道場の月曜日の夜と土曜日の午後の師範を務めておられます。

私が横田師範を心から尊敬している理由をご理解いただくために、私自身がどのように武道の道を歩んだかを始まりからお話しいたします。

私は7歳になる頃、3日間の小学校のキャンプに参加しました。キャンプといっても一晩野外で過ごすキャンプではなく、毎日終了時刻になると家に帰るキャンプでした。 2日目のアクティビティの中で、他の子供たちに遅れを取った、ある一人の太った年上の男の子に気づきました。彼は12歳で、私より5歳年上でした。 25歳までの私は、どこに行っても一番小さくて痩せた少年でしたが、そんな理屈など意にも介さない行動を取ってしまったのです。私はその12歳の男の子のそばに行って、「なんでそんなに遅いんだ?おでぶ」と叫んだのです。

何ということを!

幼い子供は物事をわかっていないので、何らかの形で学ぶしかありません。私の学びはキツいものでした。その12歳の子が振り返って私の顔を殴ってきたのです。骨折はしなかったものの、ひどい出血だったことを覚えています。

その日、家に帰ると父は私が殴られたことに腹を立てませんでした。ところが、私が反撃しなかったことに腹を立てたのです。私はオーストラリア人ですが、父のこの考え方は、彼がイングランド北部のかなり荒れた地域の出身ということに由来します。父は第二次世界大戦直後に生まれ育ちました。誰もが貧しく、生き延びることが最優先だった時代でした。戦うことはイギリスの少年たちの第二の気質だったと父は言っていました。私にもそうなってほしいと思っていたのでしょう。

父はすぐに電話帳で近くの武道教室を探しました。一番近かったのは地元の高校のテコンドークラスでした。父自身も1970年代に初めてオーストラリアに引っ越したときにテコンドーを習っていたので、彼は私をすぐにテコンドークラスに通わせました。私はすぐにランクを上げ、テコンドーが公式のオリンピックスポーツになった場合、全国連盟が訓練を予定していた13歳未満のオーストラリアナショナルチーム、つまり「エリート」チームの一員として、2段ジュニア黒帯を獲得しました(実際にオリンピック競技となったのは1994年でしたが、当初は2000年実施の予定でした)。

私がテコンドーのトレーニングを始めて1年になる頃、子どもたちのテコンドーのトレーニングを手伝っていたイギリス人女性から、父が彼女の夫の合気道の話を聞き、父も合気道の道場に加わり、私の合気道の訓練が始まりました。大きくなるまで父はいつも私を相手に合気道の技を練習しており、私は父の昇級審査のための練習相手として技の受けをしていました。練習の際、父はプールで私を相手に5級から1級までの実技の練習を通しでしていました(オーストラリアでは、自宅に大きな屋外プールがあるのはごく普通のことです)。

子どもの頃、合気道は本当に退屈でした。私がやりたかったのは、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのようにパンチとキックをすることであり、スティーヴン・セガールのように人を投げ飛ばすことではありませんでした。私は、その時代の他の子どもたちと同じように、1980年代のアクション映画を見て育ちました。スクリーンで悪役をやっつけるアクションスターを見て、私も彼らのようになりたいと思っていました。それにはもっとたくさんのトレーニングを必要とします。私はテコンドーを心から楽しんでいましたが、ある日突然、父は私をテコンドーから引き離し、空手道場に通わせました。

「ぬれた紙袋を破けないほど、お前のパンチは弱い」と父は言いました。そこで私は、黒帯になって2年後に空手道場で最初の白帯からやり直しました。最初は大変で、私と同じ年くらいの子どもたちに対して攻撃し、欲求不満をすべてぶちまけました。父はすべてのクラスに来ては座ってじっと見ていました。そして家に帰ると、誰が「うまくやっていた」のか、誰が「レッスンを学ぶ必要があったのか」を私に叱咤激励しました。父は私がクラスの「トップ」になった姿を見せてほしいと思っていました。その頃はよく分かりませんでしたが、父の教えは武道の本質からかけ離れているということに少しずつ気付き始めていました。

10代で武道を数年間休みましたが、19歳のときに空手の道に戻り、3か月後、オレンジ帯として、2人の黒帯の真ん中で表彰台に立っているクイーンズランド州の組手チャンピオンとなりました。オレンジ帯が2人の黒帯を打ち負かして65kg未満の部門で勝ったとき、観客がどう思ったか想像できると思います。 19歳のときの体重は63kg(138ポンド)でしたが、現在はほぼ90kgです。痩せた状態で武道を学んだことが、筋肉が付き始めてからも多いに役立ちました。

このあとすぐ、交換留学生として1年間日本に住んでいた親友を訪ねて初めて日本を訪れました。彼は武道に全く興味がなく、私自身も週に数回オーストラリアの空手師範の道場に通っていたにもかかわらず、19歳でもっと大事なことが頭に浮かび、空手を永久にあきらめてしまいました。

当初8週間の予定だった滞在は18ヶ月になりました。私は8週間の終わりに帰国し、大学を中退し、パートタイムの仕事を辞めて、すぐに日本に戻りました。その18ヶ月の旅行の最初の13ヶ月は、東京でのパーティー三昧の日々でした。

しかし、何かが私の内側から訴え続けました。道場が恋しかったのです。6歳の時から、私はトレーニングしか知らず、道場は私の一部でした。そこで2001年11月、日本語を話す友達を同伴し合気会本部道場に入門しました。プールで受け身の練習をしていたのだから大丈夫だと当時は思っていました。

それは間違いでした。

本部に一ヶ月通った後、合気道を辞めました。どうしても上手になりたかったのですが、日本語が話せず、クラスも(2階の初心者クラスでも)回転や転倒の仕方がわからない人向けではありませんでした。これは実は、今日でも本部道場で出くわす問題です。特定の師範と個人的な関係がない限り、実際のところ教えはほとんどありません。師範や他の人の動きを見て同じ動きをするだけです。他の道場では、先輩・後輩制度はまだやや整っていますが(欧米では師範からの適切な指導があります)、本部道場ではそれほど多くはありません。誰かに教えてもらいたいと切望しているけれど、(練習が完全に沈黙しているために)怖くて尋ねられない、または尋ね方がわからないといった声をよく耳にします。これは本当に取り上げなければならない問題だと思います。

多田 宏師範とご一緒するライオーン

合気道をやめてからはまたパーティー三昧の日々に戻りましたが、それでも道場への未練は内面で続いていました。その頃、父の友人の勧めがあり、多田師範の有名な道場である月窓寺道場を訪ねてみてはどうかというものでした。オーストラリアの学校に戻ることにしたので、日本にいられる日も終わりに近づいていましたが、いちど多田師範を訪ねてみようと思いました。そこで実際に多田師範にお会いしに伺ったのですが、私の日本語能力の限界を感じ、いったん帰国してその時を待つことにしました。

2003年1月、父の合気道道場に参加しました。父は補助の師範となっており、火曜日の夜に自分のクラスを教えていました。私を主に教えてくれたのはイギリス人のグラハム・モリス師範でした。グラハムは1980年代に二段としてオーストラリアにやって来て、当時合気道がなかったため自分の道場を設立しました。私はとにかく日本に戻るつもりだったので、飛び込んで基本を学び、モリス師範の下で5級と4級を取得しました。その後、日本での1年間の交換プログラム(多田師範の道場で勉強し、3級と2級を取得)の後、オーストラリアに戻って大学を卒業し、モリス師範の下で1級を取得しました。

私は日本に戻ることだけを考えており、文字通り大学を卒業した週には、飛行機に乗って月窓寺道場に戻り、その後4年間修練しました。私は多田師範と多田師範の教えのすべてに没頭しました。彼は「気の練磨」と呼ばれる独自の呼吸法を考案しました。それは次世代に継承されており、私は今でも個人的に実践しています。しかし、自分に伴わない何かを感じ、月窓寺に通うのはそろそろ終わりにするべきだと思い始めました。

多田師範は素晴らしい名人で、生徒たち同様に友好的でしたが、私自身はまた違ったバックグラウンドがありました。私はトーナメントでの戦いに慣れていて、大きな試合(少なくとも私にとって日本での試合は大きかったのです)の前に意気揚々とした感覚を味わっていました。私はハードトレーニングに慣れており(空手道場では腕立て伏せ、腹筋、スクワットを普通にトレーニングに取り入れていました)、そこで合気道に違和感を感じ始めたのです。

その頃、ブラジリアン柔術が流行り始めており(ブラジリアン柔術をやっていた2人のスコットランド人の友人が、合気道をやっていた私を嘲笑していたのを覚えています)、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)は活動が盛んで、そんな中、痩せ型の私は元来の自分から外れた何かでがんばろうとしていました。朝はジムで肉体を鍛え、夜は月窓寺にも行き、また本部道場にも行き始めました。

何人かの本部師範と一緒に練習し、新しい友達を作ったり、合気道の新しいやり方を学んだりしましたが、それでも何かがうまくいきませんでした。私がやりたかった合気道ではありませんでした。これも私がやりたかった武道ではなかったのです。

私は岐路に立っていました。辞めたかったのですが、あきらめたくありませんでした。

「空手に戻ってみたら?」私の友人の一人で、東京でプロのヘビー級キックボクサーだったエリックというアメリカ人から言われました(エリックは亡くなりました。R.I.P. エリックのご冥福をお祈りいたします)。私はこの時すでに何年も日本にいて、ここでたくさんの親しい友人関係を築いていました。

「いや、俺はプロのレスラーになりたいんだ。」そう私が言うと彼は笑いました。

想像してみてください。私は75キロ位で、10キロ位の筋肉がついていましたが、それでもレスラーになるのには小さすぎました。

エリックは私にこう言いました。「日本では、MMA(総合格闘技)の人がプロレスをし、キックボクシングの人がMMAをしている。ここの人たちはなんでもやっている。俺と一緒に伊原道場に行ってみないか?そこから何かにつながるかもしれない。」

私は行くことにしました。とにかく行ってみようと思ったのです。結局のところ、私はキックをしたかったのす。私がオーストラリアにいたとき、放課後になると、週に3日父は私のためにキックパッドとパンチパッドを持ってくれていました。また、父は学校の宿題をする前に、私が1日最低1時間サンドバッグを叩くように言っていました。父にとっては、武道が第一で、学業は第二だったのです。私は、父に対して、このことを毎日心の中で感謝しています。

2007年の1年間と2008年の半年間、私は掛け持ちでジム、キックボクシング、合気道を続けました。月窓寺道場の人々(国内外の合気道家)は、「筋肉が多すぎて合気道には良くない」とか「両方は無理。君は合気道の方がいい」などと言いました。ですが、合気道をやめてキックボクシングをやりかった私には、こういった助言が心に響くことはありませんでした。

私は決意を固めました。2008年の終わりに、合気道をやめ、いつかレスラーになりたいという気持ちで、フルタイムでキックボクシングに入るつもりでした。私がその場で合気道をやめなかった唯一の理由は、大師範(合気道創始者の植芝師範)の生誕地である田辺で開催される2008年のIAF国際会議に、オーストラリアの友人が参加することになっていたからです。

楽しいだろうと思いました。日本で、親友とマットでトレーニングをした後は、ビールとどんちゃん騒ぎが待っていました。私たちは日曜日にチェックインし、トレーニングは翌日月曜日に始まりました。最初は関師範でした。私はそれまで彼に会ったことがなく、他のどの師範よりも彼の教えに夢中になりました。関師範に対して「この人なのか?」「とにかくやめるつもりだったよな?」などの考えがよぎり、関師範は本部で2番目に好きな師範になりましたが、私はその段階で合気道への別れを決意していました。そしてこの田辺大会が最後となったのです。

関師範の授業から30分ほど休んだ後、聞いたことのないもう一人の横田師範が畳に入ってきました。鈴木俊雄師範が受けでした。横田師範は俊雄師範に「よし、横面行こう」と言っていました。つまり「横面打ちでかかってきなさい」、という意味です。私の日本語はこの時点でかなり上手になっていました。

横田愛明師範

1960年代の古いバットマンを見たことがありますか。パンチをしたり、何かアクションをすると、バン!ヒュッ!バシッ!バタッ!などと、画面にコミカルに言葉が点滅しますよね。あんな感じです。

横田師範が最初の技を披露しました。私の目は驚きで大きく開いていました。私が見ていたものが何であったかすぐわかりました。私は本物の師範を見つけたのです。私が合気道を続けていたのは、この師範に出会うためでした。人生のこの瞬間を決して忘れないでしょう。私たちは、「このために生まれた」と生涯の仕事を見つけた瞬間に感じることがありますが、まさにそのものでした。

驚いたことに、師範は正確な距離を見せるために横蹴りをしました。今この記事を書いていますが、彼は昨夜本部道場で私を受けに使ったときにも実際に私に横蹴りをしました。彼の蹴りは、優れた空手家と同じくらい鋭く、正確で、速いのです。その田辺大会で、彼は観客に技を見せるために入り身投げから腕十字固めをしました。私は興奮のあまり目まいがしました。彼の合気道は冷酷ではなく(若い頃の話は別だと聞いたことがありますが)、私が今まで見たことがないほど完璧に近いものでした。私が探していたもののすべてをついに目の当たりにしたのです。

私のバックグラウンドは蹴りとパンチ(そして過去10年間はレスリングと格闘)でした。合気道は常に武道の観点から意味をなす必要がありました。ここに、合気道こそが本物の武道であることを私たちに示している師範がいました。

私は正座で座っていましたが、師範には駄菓子屋の子どものように見えたのでしょう。師範は私を見て指さしました。私の心臓は高鳴っていました。私は立ち上がって彼をつかみましたが、次に何が起こったのか覚えていません。地面に叩きつけられていたことを覚えています。そして私を怪我から守ってくれたのは自身の受け身でした。私に怪我はありませんでしたが、受け身の訓練をしていない人であれば頭が無くなっていたかもしれません。師範はさらに私を投げました。

結果は同じでした。合気道人生で2度目ですが(多田師範の手首をつかんで、2カウントする前に三教投げされたことがあります)、受け身を「取った」のではなく、私は単に自然に受け身を「やった」だけでした。違いを説明するのは難しいですが、説明してみます。受けとして、あなたは取りを攻撃しますが、自分の役割を分かっているので、良い受け身を取る必要を認識し、100%従います。横田師範は違います。あなたが攻撃すると、師範は幽霊のようにあなたの側にすっと移動して、いつの間にかあなたを倒す体勢に入っているのです。師範はあなたをたおしますが、あなたは受け身を「する」ことしかできません。これが、日本語で言うところの「受け身を取る」と「受け身をする」の違いです。

翌週、月窓寺道場をやめました。大変なことでしたが、本部道場の横田師範と一緒の道を歩みたいと思ったからです。

田辺大会の翌週、師範が本部に戻ったとき、私はマットで彼と最初に対面した一人でした。私たち全員が並んでいる時、体操選手のように柔軟体操をしているやせ型ながら筋肉隆々の白人男性が目に入りました。師範がお辞儀をし、私たちが準備運動で立ち上がるとすぐに、その男性は走って最前列に行きました。 10分間の準備運動で、ジェイソン・ステイサム似の彼の準備運動は私にかつてないほどの強烈な印象を残しました。彼が私の来の先輩、そして将来の親友の一人であるDJとなることは、この時はあまり考えていませんでした。

すでに簡単に触れましたが、ここが武道における先輩と後輩の関係の非常に重要な点です。熟練したアメリカの武道家であり、横田師範のトップクラスの学生の一人であるDJは、そのギャップを埋めるのを手伝ってくれました。彼は私にとって「横田翻訳者」であり、横田師範が本当に言っていることを理解するのを助けてくれました。偉大な師範の下でトレーニングしていると、師範とのギ​​ャップが大きすぎると感じることがあります。多田師範の下、修行をしていた間、何が多田師範を人間として、教師として作り上げているかを良く知らないまま、無尽蔵な知識を持つ多田師範の70年近くの武道の歴史を再現しようとしている生徒たちを見て、私はそのように感じました。

DJは後輩を育てる方法を教えてくれました。必要に応じて師範の世話をし、道場の掃除、マナー、エチケット、また、道場の訪問者がずさんなエチケットで手に余るときは、部屋の悪者にならなければならないこともあります。私は今、自分にも後輩が何人かいますが、DJのおかげで、まともに接せていると思います。

横田師範は、合気道とは平和の導きの光であり、真の美しさを示すものであってほしいと願っていますが、武道の観点から、合気道は自衛に用いうるとも確信していらっしゃいます。横田師範にとって、一殺の瞬間とは、攻撃や防御の「機会」が一瞬であるという意味を示します。それは技(テクニック)の中に含まれています。

師範は私たちに、自然な本能にただ動いて反応することによってできるだけ多くの武器を身につけることを教えています。一殺の瞬間はあなたが自分で育てなければならない感覚ですが、師範は、技に対して、動いて反応することを望んでいます。そしてそれは、決して静的ではなく、決して重さを感じさせるものではありません。一方、他の多くの師範はゆっくりとした動作で、つながりや重さを感じることに重きをおいていますが、違いはあるものの、別のスタイルの合気道であるだけです。横田師範はゆっくりとした動作で重さを感じることに焦点を当てておられず、スピードとタイミングに焦点を当てています。彼は蹴られて殴られてしまう箇所、また、投げをできる箇所を示してくださります。このことから師範が自身の合気道の技に精通するだけでなく、空手と柔道を学んだことがわかります。

たとえば、本来の入り身投げでは、ぐるぐる回ってから相手を投げることが求められます。しかし、現実の戦いで相手を前にすると、回って、素晴らしく流動的な美しい動きをすることはできません。入り身で入ったら、すぐに相手を投げます。こういったものすべてが横田師範がご指導される合気道の練習に含まれています。

合気会本部道場の横田師範と生徒のグループ。一番左側にいるのがライオン。

受け身は、感じることが大切だと一般的には教えられます。たしかにそうですが、師範は殴られないようにする方法を学ぶように、とおっしゃっています。多くの人は純粋に相手が技を習得できるようにするために受け身をしているので、実際のところは、双方ともうまく動くための練習をしているようなものです(若い世代、YouTube世代はそうです)。ですが、現実には、受け身とは逃げるための方法であり、受け身が得意でない人、受け身をできない人には合気道が理解できません。受け身を取ることと投げること(技)はどちらも同じように重要です。

横田師範によって私は再び合気道を信じることができました。師範が空手と柔道の出身であることを知っていることにより、他の武術に負けない自信を与えてくれます。また、合気道は総合武道であり、合気道がいかに強力であるかを理解するためには、外の世界で他の武道を渡り歩く必要があるという考えを教えてくれたのはDJでした。現代の合気道が持っている欠点をすべて塞ぐためには必要な他のスキルを習得することが重要です。横田師範の合気道を見ると、武術に関する豊富な知識や空手を取り入れていらっしゃるのがわかります。

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2012年4月、30歳の時、私は元WWEスーパースターの田尻義博が運営するプロレス道場に入りました。これは、2つの理由から日本ではまったく前例のないことです。

  1. 外国人は日本のプロレス道場にいきなりやってきて訓練を始めることはできません。通常、入門を考慮されるためには、以前何らかの経験を持っている必要がありますが、それでも、通常の場合、一刀両断で断られます。私の場合、日本語の能力と過去の武道の経験により入門が許されました。
  2. 私は30歳でしたので、レスリングの経験がまったくない新人としては年を取りすぎていました。

入門したときにわかっていなかったのは、プロレス入門後は、昔ながらの日本の武道の訓練スタイルで学ぶということでした。ここ日本のプロレス業界は欧米に追いついておらず、まだ「やるか、死ぬか」という考え方です。私はかつてこれほど激しい肉体的訓練を受けたことがありません。1セット最低300〜500のスクワットやその他数え切れないほどの過酷な修行をしなければなりませんでした。

当時私が知らなかったのは、エリックが言ったように、日本でプロレスが始まって以来、皆、実際に異種格闘技から入ってきていたということでした。日本の元々のプロレスラーは全員、ほとんどが相撲取りか柔道の選手でした。ですから、後に日本の柔道についてオリンピックチャンネルのドキュメンタリーを撮影したとき(私は映画製作者でもあります)[1]、私のレスリングカーディオトレーニングはオリンピックの柔道選手が行っていたものとまったく同じであることがわかりました。実際、初期の日本のプロレスの先人の一人は、史上最高の柔道家の一人と広く見なされている木村政彦でした。彼はまた、グレイシー柔術の開発者であるエリオ・グレイシーを、しばしば「キムラ」と呼ばれる腕緘(リバースアームロック)でギブアップさせた人物でもあります。

新宿フェイスアリーナでの新たな勝利を祝うライオン

私はフルタイムでレスリングのキャリアを追求していた3年の間、合気道を休みました。WWEスタイルのレスリングをしていたつもりだったのですが、その間、あたかも格闘とレスリングのマスタークラスを取得していたようなものだったとは考えもしませんでした(WWEアメリカンスタイルと日本スタイルのプロレスの違いは計り知れません)。

3年間離れたことにより、横田師範の合気道に深い感謝とともに戻ってきました。合気道を離れる前には持っていなかった新しい一連のスキルを身に付けたことで、異種トレーニングがいかに重要であるかをすぐに実感しました。確かに合気道はすべてを網羅する武道であることを教えてくれた横田師範(とDJ)に感謝いたします。私たちは自身が何を探しているのかを知る必要があります。

記:

[1]

]オリンピックチャンネルドキュメンタリーリンク
テレビ用フルグラフィックスの9分の短いバージョン https://www.olympicchannel.com/en/video/detail/how-japan-came-to-be-a-land-of-judo-legends
オリンピックチャンネルスタジオ編集前のより長いバージョン(日本の武道の歴史について話しているが、オープニンググラフィックがないので、私はこちらを良いと思います)
https://vimeo.com/497241478

Copyright Rionne McAvoy © 2020
今回の記事は、作者のご厚意により、合気道イタリアネットワークに掲載されました。

ソース: Rionne McAvoy, It Had To Be Felt #65: Yokota Yoshiaki: “Issatsu no Shunkan”, Aikiweb, 2020 http://www.aikiweb.com/forums/showthread.php?t=25726


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